
慶山の歴史
1949
創業者 井上仁官 明治大学機械工学科 卒業
母が目の病気を患う。長男の仁官は大学に通いながら家業のタッペギ作りで生計を立て母の治療費、家族全員の生活費、自身の学費に充てる日々。貧しい家庭環境の中、せめて長男だけでも大学に行かせたいと両親の強い願いの中、勉学に励む。苦労の末、大学を卒業。一家の柱として両親・兄弟達を養う為に奮闘するが仁官は日本国籍を保有していないとの事で、就職先が全く見つからない。(当時外国籍保有者はまともな職に就けない時代であった。)就職出来ない日々が続く。
1950
5月29日、妻(久仁子)と結婚。同年、知人が営む鉄工所に就職。かなりの低賃金ではあったが、念願の就職である。しかし勤務先で不正が発覚。まさかの濡れ衣を着せられ拘束される。
1961
知人の紹介でタクシー会社(栄自動車)に勤務する。
東京の下町を回りながら、渥美清を乗せたのは仁官の自慢話である。とある日、乗客が当時では珍しいカメラを車内に忘れ、会社で管理したが持ち主が現れないまま一年以上経過。会社からそれを受け取る事になりカメラに没頭。生涯カメラを趣味に、様々な写真展に出展するきっかけとなった。
苦しい生活も少し落ち着いた頃である。仁官の義弟が博打で大失敗し一文無しになりかける。義弟の代わりに、ヤクザと数週間粘り強く交渉して問題を解決した。義弟は一文無しにならずに済んだ御礼として土地を購入。相変わらずまともな職に就けない厳しい生活が続く中、意を決して自身で商売をスタートさせる。自動車解体業を始業。
1970
自動車解体業 「光商会」開業(現在の千葉県船橋市山手)
1978
現在の千葉県鎌ケ谷市に移転。
自動車解体業を選んだ理由は、明治大学で機械工学を学 び、幼い頃から興味を持つ分野だったから。しかし十数年間、自動車解体業を営んだが、鉄の値も下がり景気も悪く低迷する。



